経験をするということは修行と同じ

何事も経験だと言われたことのある人は多いと思うんだ。
私も言われたことあるもん。

でも、何事も経験だと言われると、なんだか自分がやりたくない事をやらされて、大変なことになってしまうのではないかと思ってしまい、なんか嫌だなと感じてしまうことがある。私も20代の頃にはあったよ。そんな気持ちになった。出来れば、あまり労力をかけずに済ませたいなと考えてしまうんだよね。別に逃げている訳じゃないんだけど、結局は嫌なことから逃げようとしている自分が居るんだな。

経験という言葉は 経 と 験 という字で成り立っている。

経は経線とか経営などにもつかわれる字です。経営の意味が理解できていれば、経とは糸を意味していることを判ってもらえると思う。そう、その糸は真っ直ぐな縦筋の糸を意味しています。経営も真っ直ぐに筋が通すこと、人としての道筋をたてること、道を外れないことなどを意味している。

経験の験は、験を担ぐという意味の験。修験者の験でもある。験というのは、人がある行いをしてきたことの効能、効果、効き目の事を意味している。そういったチカラのことを験力と言います。

経 と 験 を合わせて 経験。

それは、真っ直ぐに生きてきた人が得ることが出来た験のこと。

年齢は関係ないと思う。

年齢が若くて、未熟だとか言われるかもしれないが、一生懸命に生きてきて、努力をしているのであれば、それなりの経験値が得られる。自分の手を汚して努力をしてこそ験が得られるのだと思う。

というような話を私は子供の頃から聞かされてきた。
とても良い言葉だと思う。

験力を得るために修行をする人たちも居ます。
修験者の人達です。

日本古来から山岳信仰というものがあり、修験者の人たちが歩く道、修験道なるものもあります。現代でも残っています。私は修験者じゃないけど、似たようなことをさせられたけど、けっこう大変ですよ。宗教とかじゃなくて、そもそも苦行を積むということは、昔から行われてきたということ。苦しい行いをして自分を磨くという考えなんだろうと思う。それは、験を修めるということ。経験。

修験者じゃなくても、今現在自分が行っていること、取り組んでいる仕事などに対して、今以上の能力、今以上の技術力を見に付けたいのであれば、やはり修行が必要だと思う。実は私たちは、山岳信仰でいうところの修験道とは違う修験道を歩いているのかもしれない。

修験者とか験力とか、なんともバカバカしいなと思われるかもしれないけど、IT関連、クリエイター、プログラマーは率先して禅の心を修得しようとしている活動もありますよね。小手先の技術じゃない、小手先の科学じゃない、デジタルじゃない、本当の心が通った技術を身に付けたいのだろうと思うし、集中力、新しい発想力、今までに無かった考えを見出そうとしているのだと思う。それって、言葉は違うけど新しい経験を取り入れようとしているのだと思う。ということは、験を担ぎたいんだよね。験を担いで、その験力を仕事に活かして、社会のために役立てようと考えていたりするわけでしょ。今までに無い便利なアプリとかウェブサービスを開発したりなんかしちゃったりもするわけで。

今現在の自分には無いチカラを身に付けようとする時には、やった事の無いような新しいことに挑戦をしてみようと思うだろうし、新しいことを勉強してみようと思うだろうし、何か楽しい事をしてみようとする。それって、今までに無い経験をしようとしていることでしょ。

つまり、経験とはそういうこと。

だけど、やりたくないなと思う経験もあるわけ。やりたくないと思う経験というのは、自分が経験したいと思っている内容とは異なっているから嫌だと思うんだろうね。

新しいアイデアを生み出すために何をする?
人それぞれ、色々な方法がある。

それは、その人の想い描いている事と合致するかどうかだよね。その方法と自分が合うかどうかの相性だよね。その人の素質っていうのもあるから。無理させても出来ない事もあるから。

いつも、皆 修行をしているんだ。

たくさん経験をして験を担ぐ人になりたいな。

知らずうちに経験豊富な人の存在価値というものが判ってくるから不思議。経験豊富な人というのは、楽しいことも、苦しいことも、楽しいことも、悲しいことも、痛いことも、嫌なことを知っているから自然と人の気持ちが分かる人になるんだろうな。だから、人に慕われるんだと思う。人の質というのは経験から生まれるかもしれない。

私も、まだまだ修行中です。