経営者としての判断 人にやらせるか自分でやるか

この仕事を自分でやった方が良いのか、人にやらせた方が良いのか、どうしようかと判断に迷うことがある。自分でやったほうが早いかもしれない。他の人にやらせると、自分が手がけたよりもスピードが遅くて、時間を要することもある。

どうしようかな。

いちばんダメな経営者、社長は・・・自分が出来ないことや、やりたくないことを人にやらせるというタイプ。自分でやろうとして努力をしない人には誰もついていかない。上司でもそういった人って居るんじゃないかな。自分が出来ないから人にやらせるというのは、人が育たなくなる。ただ、自分がやりたくないから、出来ないからという理由で、他の人に仕事をやらせるというのはよくありません。

仕事をまわされて、依頼された側の人としては、自分ができないことをこちらにやらせている、自分が嫌だと思う仕事をやらせている、と思ってしまいます。単なる雑務処理係り的な扱いをされているのではと思ってしまうこともあり仕事をまわせる側、依頼された側の人は卑屈になってしまいます。

仕事は、やっぱり金で決まるのか

学校を卒業をしてはじめて会社という組織に所属をしたという、新入社員がその会社で生き残る確率というのは低いと思う。生き残るというのは長く続けらるかどうかということ。入社をして3年くらいで退職をして別の会社に移るというのが普通じゃないのかな。

普通じゃない?

私ははじめて入社した会社には7年くらい在籍をしていた。
けっこう長いよ。

時期的にバブル終焉ということもあって、バブルの余韻もありつつ、バブル崩壊の足音も大きくなりつつある時期だったし、働きやすさというよりは、はっきりいって給与が良かった。ただ、それだけだ。今の時代のように残業をしても残業代が出ないなんてことは一切無かった。逆に貰い過ぎかもと思うこともあった。だから、モチベーションが高かったのかもしれないな。

だって、そりゃそうでしょ。

高い給料貰っていれば気合入りますよ。
モチベーション高くなりますよ。
今日も頑張るぜという気持ちになりますよ。

なんだ、お金のことしか考えていないのかと思われるかもしれないけど、働くということは収入を得ることだから。もちろん真面目に社会の一員として、仕事を介して社会貢献をするという気持ちも持っていたし。

給料が安くても働き甲斐があるという言葉を使う人も居るけど、私は働き甲斐が無かったとしても給与は高いほうが良いな。だって、会社という組織に属して、自分の時間を犠牲にして、仕事をするわけだから、同じ時間を費やして給与が安いより高いほうが良いに決まってる。

というように働き甲斐があって、給与が高いという仕事が最も良いと思う。働き甲斐があって、給与が高い仕事しかしないと言うと、自分のことしか考えていないとか、お金のことしか考えていないとか言われそうですが、皆さんはお金が欲しくて仕事をしているわけじゃないのかなと思ったりする。

私は、はっきりってお金ですね。

自分が出来ること、自分の能力、技術、知識、経験を仕事に活かして、誰かの手助けをしたり問題を解決したりすることで、その対価としてお金を貰っています。もちろん、お仕事は真面目にしっかりとやりますよ。いい加減な仕事はしないし、気付いたことは言い難いことも伝えるようにしますよ。お客様を騙すこともしないし。また、今度もお仕事を依頼しようと思ってくれるような仕事っぷりをしていますから。ということは、お金は欲しいけど、お金を貰うためには丁寧で親切な対応をしながら仕事をしているんだなと自己分析。なんていう自画自賛的なことを言っても仕方がない。自分の事は周りが評価をするから良いんだよ。

ということで、私はお金が欲しいから仕事をしているのだけど、お金のために何でもやるという感じの人間ではありません。

騙してお金を儲けようなんてことも考えていないし、誤魔化そうということも考えていない。自分が出来ることのなかで精一杯やるだけ。それで、お金が着いてきてくれると良いなと思う。ただ、私の仕事というのは受託して何かを作る、ソフトウェアを作るというような仕事なので労力と工数が全てなのかもしれない。そういったことを考えると私の仕事はボロ儲けは出来ないということだ。1日24時間。工程が決まって、工数が決まれば、必要な時間枠も決定して、仕事をこなすために拘束される時間というのも決まってくるから。

この案件をこなすのに2週間は要する。2週間を10日で考えた場合、1日8時間として80時間が必要なわけだ。その80時間を如何に効率よく、そして短縮できるかが課題となってくる。もちろん80時間を越えてしまうこともある。

でも、誰もがお金が欲しいから働くんだよ。

お金が貰えないのに働くという人は居るのだろうか。もしかしたら、お金を貰わなくても良いから働きたいという人も居るかもしれない。それはボランティアになってしまう。

お金が欲しいというのは生活をしていくために必要だからという意味もある。

一生懸命働いてお金を稼いで、自分が目的としていることを成し遂げたいという人も居るはず。

目的を持って仕事をして、しっかりと収益を上げること、お金を貰うということはとても気持ちが良いと思う。

日本の禅文化を海外に出したのは鈴木大拙

日本国内の企業やビジネスマンが禅の文化に興味を示したきっかけを作ったのは、明らかにスティーブ・ジョブズ氏の存在が大きいと思います。社内には座禅ルームがあったりとか、禅宗の教えを取り入れていました。

海外の企業が禅文化を取り入れているということを聞くと、日本人は真似したくなってしまうものです。何故か、日本というのは海外で流行するカルチャーを真似しようとする傾向があります。これは、私自身もそういうったところがあります。

ただ、禅文化に関しては、昔から日本に根付いている教えであり、文化です。日本の禅文化を海外に広めたのは、まぎれもなく鈴木大拙先生です。日本の禅文化の著書を英語で出版しました。そして、海外に広めました。これが、海外でいうところの日本の禅文化になっていることが多くあります。

スティーブ・ジョブズ氏が、禅に傾倒したのは、鈴木大拙先生の影響があったのだろうと憶測できます。

悲しいかな、日本人は鈴木大拙先生の禅文化の教え、著書にはあまり関心を持つことなく、海外で著名な経営者であるスティーブ・ジョブズ氏が禅を取り入れていたというところから、禅に興味を持ちます。ただ、日本という国に生まれて、日本という国で育った、日本人である私は日本の文化をどこか、カッコ悪い、古い文化であるという認識を持っています。それは、歪んだ認識なのかもしれません。

自分が生まれ育った国の文化をもういちど見直して、良いところを抽出してみれば、諸外国では感じる事のない素晴らしさや美しがあるということに気付きます。海を渡った遠い国の文化ではなく、自分の近くにいるおじいさん、おばあさん、父母の教えこそが素晴らしい哲学だということにも気づきます。

日本に昔から伝わる文化、哲学などを知ると、それが仕事に活かすこともできます。

一攫千金を狙うか 地道に稼ぐか

知り合いの経営者のなかに一攫千金を狙おうとする人が増えてきました。なにか焦っているのだろうか。早くキャッシュインが欲しいのは誰でも同じですし、その気持ちはよく判ります。

 

コツコツ地道に

私としては、一攫千金よりも地道にコツコツと積み重ねてきたこと、努力をしてきた仕事の方が確実な利益につながると思ってる。自分が努力をして、大変な思いをして、地道にコツコツと続けていけば自然と利益は上がるはず。地道にコツコツと仕事をするということは、目立とうというつもりないし、人を押しのけて前に出ようという気持ち無い、謙虚に自分が出来ることを続けていく。そこには色々な問題や弊害が発生するかもしれないけど、それらを乗り越えていくことで、自分の経験になるのだろうし、自分の知識にもなるし、チカラにもなる。これが一番大切なんじゃないのかなと思う。

一攫千金を狙うという人は、自分が出来ないようなことでも首をつっこんで、儲け話に絡んでいこうと考えているのだろうと思う。自分が出来ないことをやろうとしてお金を稼ぐというのは、なかなか難しい。いや、難しいというか不可能だと思う。

大きな案件があり、予算が1000万円くらいあるらしい。その案件を処理するために別の会社や別の人に廻して作業ないし処理をさせて、納品するときと請求のやり取りだけは自分を介して行うという考えを持っている。つまり、仕事を受けるが、実務はアウトソースしてしまい、自分が手掛ける実務は皆無。受けた金額からアウトソースした金額を差し引いて残った金額が自分の懐に入るという考えなのだろうと思うけど、そんなに簡単にいくのだろうかと思ってしまうし、仲介をするだけで儲かるのだろうかとも思ってしまう。

つまり、仕事を仲介するだけ。

仲介をするだけというのは、自分は仲介をする案件には直接的には手を出さないわけでしょ。作業をしたりとか、何かをするということが無い。つまり、そこには努力が無い。ここでいうところの仲介というのは、不動産屋さんなどとは意味が違います。貸しビルの仲介などは、その物件を紹介することに意味があり、意義があり、効率よく物件を探すことができますし、それこそが人助けになっています。

 

一攫千金を狙うのか

私は性格的に一攫千金を狙うタイプでは無い。
絶対に違うな。

自分が出来ることだけで、コツコツと地道に続けていく方が性に合っている。ボロ儲けは出来ないかもしれないが、自分の能力を十分に発揮することができるし、それで誰かが嬉しいと思ってくれたり、助かったと思ってくれれば、とても嬉しい。

一攫千金を狙う人の特徴としては、今現在目の前にある200万円の自分で処理ができる仕事よりも、2000万円の自分では出来ないかもしれないという案件を追うという人が多いように感じる。自分で出来る200万円の仕事と、自分では出来ない2000万円の仕事が同時に私のところに入ってきたら、迷わず自分で出来る200万円の仕事を選ぶ。200万円だけど自分で出来るから、自分のオフィス内だけで対応することができるし、自分のオフィス内でできるということは、その後の責任も取れるということ。

自分で出来ない2000万円の仕事は金額的には魅了的だけど、自分で出来ないから自分のオフィス内で対応が出来ない。応援が必要だ。それは、アウトソースという方法があるけど。自分が出来ないことを、他の人にやらせるということほど仕事上で恐ろしいことは無いという考えを持っているから、どう考えても無理だな。成果物を納品したあとのアフターとかを考えると恐ろしい。

金額で仕事を選ぶのではなく、自分で出来るかということが大切だと思う。自分で出来るからこそ、オフィスを構えられているのだろうし、自分が出来ることが得意技であり、それが自分が携わっている業種・業態となってくるはず。

企業も同じようなこと。

地道にやっていきます。
これからも

地味に、目立たずに、おとなしく仕事をしていきますよ。

マーケティングとは何なのか?

ウェブ業界に携わって16年以上。様々な案件に関わってきたし、小さな案件、大きな案件、やりたくない仕事もこなしてきたけど、未だにマーケティングの意味が良く判らない。

SEO対策が全盛期だった頃も、検索結果順位を上位表示させることがマーケティング要素のひとつですよというような謳い文句で、ウェブページに様々な施策をするということもあった。リンク張りとかね。リンクを買うというのもあったね。

そもそも、マーケティングという言葉の意味が日本では少し別の意味で捉えられてしまっているように感じる。

Wikipedia には 顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、顧客がその商品を効果的に得られるようにする活動の全てを表す概念 と書かれています。wikipediaばっすい

商品を売ることなのか、宣伝することなのか、新たなサービスを作ることなのか、市場調査のことなのか・・・それとも、お客さんをたくさん集めることなのか、私にはいまいち把握できていないというのが正直なところ。

どうやら、私の中にはマーケティングという言葉は、相手が嫌がっていても、欲しいと思っていなくても、売りつけようとする。相手が来たいと思っていなくても、来させようとする手法のように感じてしまう。

私もときどきやってしまうのだけど、自分が更新したブログをツイッターでつぶやいたりなかして、更新しましたから見てね! 是非見てね! 本当に見てね! と言っても、それは自分よがりなだけで、私のつぶやきを見た人は、オマエのブログの更新なんて見たくないしと思っていることだってある。見たくないしと思っている人たちにツイッターでつぶやいて、ブログを見て欲しいと訴求することは、とんでもなく滑稽だ。なんとなく日本で言うところのマーケティングに近いような感じがしてしまって、ツイッターで自分のブログを更新したことをつぶやくのが恥ずかしいと思ってしまうこともあったりします。私はなんとも滑稽なことをしていたんだと恥ずかしくなる今日この頃。

別にツイッターでブログを更新したことをつぶやくことを否定しているわけではないです。広めていく、周知していくというためには良いツールだと思います。

どうしても、マーケティングという言葉には良いイメージが無くて、企業が無理やり利益を追求するための戦略のように思えてしまう。もうすこしスマートに美しさを全面に出した方が心象は良いと思うのだけど、なかなか難しいみたいですね。

何でも良いから売れれば良いという時代は終わったように感じるし。

本来、マーケティングというのは横文字で外来じゃないですか。外国ではマーケティングというのが主流であり、当たり前だったのかもしれない。そこに、日本独自の文化が融合した おもてなし という心の美しさ、相手を敬う気持ちが詰め込まれており、諸外国では注目を浴びました。おもてなしはマーケティングなのだろうか?

無理やり販売するよりは、欲しい人が自然と購入してくれる方が自然だし、お互い気持ちが良い。その人数が少なくても良いと思う。良いモノをそれなりの価格で販売するというのが最も良いのだと思う。

無理やりお客さんを集めたり、無理やり来させるよりは、行ってみたいと思ってくれた人が来てくれたほうが自然だし、お互い気持ちが良い。その人数が少なくても良いと思う。

人の興味を持ってもらって、信じてもらって、心が通い合えば、自然とうまくいくんじゃないのかなと思う。やっぱり、何事も心の問題なのかもしれないと思ったりする。

こんな私だって、私の仕事に対する姿勢を知ってくれている企業や知り合いの社長が居てくれて、あいつなら何とかしてくれるんじゃないかということで、お仕事に関する声をかけてもらっている。

有り難い。
本当に有り難いです。

自分が出来ることを明確にして、自分が出来ること、知っていることを欲しがっている人の手助けをするだけ。それを、真剣に真面目に親身に接して、お手伝いをすること。

ただ、それだけ。

マーケティングか、もうすこし勉強をしてみよう。

会社、企業で 部下という言葉は使いたくない

私は、昔から部下という言葉は使いたくなかったし、使うことは殆どなかった。このブログを書くにあたっては、あえて部下という言葉を使わせて頂きますが・・・今まで勤めてきた企業でも使うことはありませんでした。周りの人たち、自分より目上の人たちはよく使っていたと思います。

部下というのは、自分の下で働いてくれる従業員、スタッフ、後輩などを意味しています。自分が昇進し、数人の部下とチームを組んで新しい部署を立ち上げることもありましたが、私は彼らを部下だと思ったことはありませんし、部下という言葉を発することは殆どありませんでした。

 

 

部下 という言葉が持つ本当の理由が嫌いだから

部下 という言葉を英語にすると Subordinate その意味は、直訳すると 下位、従属 というような意味も含まれてきます。これが、本当に嫌です。後輩でも、係長でも、課長であったとしても、自分と一緒の仕事をしてくれる人たちは特別な存在であり、下位だとか、従属させる という気持ちを持ったことなど一度もありません。

昇進して、オレには部下が6人居る と威張るかのように自慢する人が居るのは事実です。オレには部下が6人居る という言葉が、オレには命令すれば手足となって動く人間が居る というように聞こえてしまった仕方がありませんし、見下している表現にとれて仕方がありません。私自身が斜に構えた人間だから、そのように捻くれた受け取り方をしてしまうのかもしれませんが。

 

 

共に仕事をする仲間だから

私は自分が昇進したときに、数人の部下を持つことができました。ただ、部下という言葉は使いませんでした。仲間とか、スタッフとか、チームとか そういった言葉に置き換えていました。部下というのは、上司の命令で動くという意味もあります。言い方を替えると、命令しなければ動かない という意味にもとれます。

私と一緒に、共に仕事をしてくれる人は仲間として認識していましたし、昔から若い人たちの意見を取り入れて、若い世代の人たちが動きやすい環境を作ってあげることが大切だと思っていました。若い世代の人たちに教えることがあるのですが、逆に教わることだったあります。

周りの人たちからは、お前は優しいヤツだ、甘いヤツだと言われることもありましたが、厳しくするだけでは意味がありませんし、命令して動かすなんてのは、相手の人間性を全く無視しているという考えをも持っていました。それは、まるで奴隷のような感じとなってしまいます。私自身が奴隷に似た様な経験があるので、そういった辛い想いをさせたくないという気持ちが強かったというのが、部下という言葉を使わない が信条になったのだと自己分析しています。

 

 

上の人の言葉尻に気をつける

 

 

企業に求めらる地域貢献、社会貢献 を 励行する女性

仕事で定期的に通る道があるのですが、そこにはクリニックがあります。町医者という感じで、大きなクリニックではありません。その道を午前8時頃に車で通ると、必ず見かける綺麗な女性を目にする。クリニックに勤めている女性です。クリニックの周りを掃除して、駐車場も掃除をして、ゴミ出しをしている。近所の人たち、通行人とも挨拶をしています。もちろん私とも挨拶をします。

本当に綺麗な女性。

私は、その道を毎日通るわけではですし、毎日彼女を見ているわけではないから判りませんが、きっと彼女は毎朝掃除をして、ご近所さんにも挨拶をしています。それは、私が通りがかった時だけ、たまたま掃除をしていたとか、その時だけ掃除をしていたとか、そういうのではありません。そのクリニックには予防接種を受けるために私も何度がお世話になっています。彼女は、クリニックで既に8年近く勤めています。つまり8年ちかく彼女は掃除、ゴミ出し、挨拶をしているということ。

きっと学校を卒業してからクリニックに勤めだして、ずっと勤務しているんだろうな。以前は、女性というよりは派手な女子という感じだったのですが、久しぶりに見かけたときは大人の女性になっていました。

何が言いたいかというと、毎朝 掃除をしてゴミ出しをして、ご近所さんにも挨拶をして、それを欠かさず励行をしているということが本当の意味で美しいということです。

もちろん、その女性の外見も美しい。

これって、今の時代の企業に求められている 心とか、地域貢献とか、社会貢献とかにつながることなんだと思います。仕事をするうえで整理整頓、清掃は必須だと思う。汚れたオフィス、散らかった社内で仕事なんて出来ないし、集中できない。資料も整理整頓して、必要な時に直ぐに取り出せるようにしておうことは当たり前のこと。いつも使っているパソコンだって同じことが言える。汚れているよりは清潔な方が気持ちが良いし、心も綺麗になる気がする。

そして企業が社会貢献、地域貢献のひとつとして社屋が建てられている周りや地域を清掃するということには、とても深い意味がある。社屋が建てられている周りが綺麗に清掃できていないのに、社内を綺麗に清掃することなんて出来ないだろうし、仕事だって綺麗に行いだろうと思う。

そして、しっかりと挨拶をする。
地域の人たちとの連携も図れる。

社外で挨拶できない人が、社内で挨拶が出来るとは思えないし、その逆も言える。

では、クリニックの女性はどうなのだろうか?

クリニックの周辺道路、駐車場、玄関を清掃して、ゴミ出しもしている、ご近所さんとも挨拶をしっかりとしている。きっと、町内では感じの良いクリニックだなと思われているはず。感じが良いということは、心地が良いし気持ちが良いし、人の気持ちを掴んでいる。人の気をひくことで、人気者になれる。そのクリニックが人気者になろうとしているのかどうかは判らない。ただ、一般企業の模範となるような活動をしていることは確かです。

毎朝 掃除をしてゴミ出しをして、ご近所さんにも挨拶をして、それを欠かさず励行をしている女性も素敵なんだけど、そこのクリニックの院長はどんな人なんだろうと興味を持つのが普通だと思う。きっと立派な院長先生だと思う。そうじゃなければ、彼女も8年間という長い期間にわたって勤務しないだろうし、欠かさず掃除をしたりするということはしないだろうと思う。継続はチカラなりというけど、本当にそうだと思う。どこで誰が見ているか判らないと言うけど、それも本当だ。

一般企業であれば、いつも従業員の人たち掃除をして挨拶をしてくれる・・・どれだけ立派な会社なのだろう? 素晴らしい社長さんがいらっしゃるのだろう。お仕事ぶりも素晴らしいのだろうと思うはず。

人としての美しさ、人として美しい行動、道徳、良心・・・こういったことが身に付けば自然とできることなのかもしれない。ただ、人気者になろうと思っているだけとか、良い印象を与えるためだけに行っているようでは、長く続かないだろう。表面だけ良く見せても、いつかは判ってしまう。

たまたま、見かける綺麗な女性から自分もしっかりしなければと考えさせられた。その綺麗さは見かけだけではなく、目には見えない心も綺麗なんだろうなと思ったし、クリニックの院長先生の美しい心をも垣間見れた気がしました。

本当に美しい行いは、人の心をも揺るがします。

社長、経営者、偉い人になると甘えがでる人

二代目社長となった友人が居ます。以前は修行という理由でサラリーマンをしていたこともありました。サラリーマン時代は、会社を休んだことがなく、短時間で効率よく仕事をしていると本人も言っておりました。仕事ができるヤツだったのに、父親の会社を引き継いで、二代目社長に就任して、数年経過すると色々と本人の資質のなかで悪い面が顔をだしてきます。

例えば、二日酔いで休んだ、ゴルフのために昼から出勤、疲れているから早退した・・・などなど、会社の社長としては如何なものかと思ってしまうような挙動が多くなってきています。ゴルフのために昼から出勤というのは、接待ゴルフでお仕事でもなく、友人達との遊びゴルフだったとか。社長だから平日からゴルフができるんだと豪語していた彼ですが、それは間違っていると思います。ゴルフをするのが悪いのではありません。

悪いのは、社長として、経営者として、自分を律することができてないということと、社長という偉い立場になったから平日に仕事をほったらかしにしてゴルフをすることがステータスのひとつであると勘違いしている癖が見えたからです。

そして、社長がゴルフをしているときも、二日酔いで休んでいるときも会社の従業員は一生懸命に働いているということを忘れてはいけないです。それを忘れてしまったら従業員を馬鹿にしていることと同じですし、そんなことを考えていると胸が苦しくなって話を聞いていられませんでした。

あくまでも私の友人ですから、友人の彼を引き合いに出して悪く言うつもりはありません。ただ、人間というのは自分が偉くなると甘えが出てくるということです。偉くなるというのは、社長になったり、経営者になったりということです。すると、周りから注意されることが少なくなりますし、叱られることも少なくなってきます。サラリーマン時代は誰かに見られている、行動を把握されているという意識があり、適切な行動がとれていたのだろうと思います。

二日酔いで仕事を休む社長が経営する会社で働く従業員はどのように思うのでしょうか? 従業員である私が腹痛になってしまったら気軽に有給がもらえるのでしょうか?

私もゴルフに行きたいので、明日と明後日の午前中はお休みを頂きますと申請をすれば、受け入れてもらえるのでしょうか?

本日は頑張って仕事をしたので、早めに帰りますといえば定時前に退社できるのでしょうか?

会社を経営する社長の行動を従業員は見ています。そして、真似をしようともします。社長がやっているから、私たちも良いかもしれないと勘違いしてしまうかもしれません。

社長の甘えた行動、怠慢な行動が従業員全員に感染してしまうこともあります。社長が毎朝、早い時間に出勤して社屋周りを掃除していれば、そういった行いが従業員全員に感染します。そういうものだと思います。

バカ社長と言われないようにしてほしいなと私の老婆心がうずいてます。

会社で今日やろうと思った仕事じゃない仕事をしているとき

会社という組織に属していたときに、よく感じたこと・・・それは、今日やろうと思った仕事とは全く違う仕事をしているんですけど・・・と相談をしてくる後輩スタッフが居た。

日々、仕事をこなしていくなかで、今日1日で完了する仕事もあるけど、数日に渡って携わらなければいけない仕事もあったりする。よし、今日は昨日の引き続きで、あの案件の内容を固めていこうと自分なりに予定を組み立てて、時間配分を考えながら、自分で自分をマネジメントしながら進めていくんだけど。

後輩のスタッフ君も自分の予定があり、自分のペースがあり、日々仕事をしなければいけないから会社へ出向くわけです。仕事がなかった会社には行かないと思うし、仕事が無かったら会社として成り立たないから。

会社へ出向いて、朝礼、ミーティングなどを済ませて、自分の仕事に取り掛かろうとするのだが、上司から突発的にこの案件をまとめておいて欲しいとか、資料を作っておいて欲しいとか、クライアントに連絡を入れておいて欲しいといった、どうにもならないことを頼まれることが多かった。

上司からの依頼なので断ることができなかったみたい。そして、自分の仕事よりも上司から依頼された仕事を優先してしまうこともあり、自分の仕事が遅延してしまう。そうなると、自分の仕事のスケジュールが狂ってしまう。依頼された仕事を断ることも出来ずに、出勤してから手がけようと思っていた仕事が全く違う仕事をしているという状態に。

これって、明らかに日本のホワイトカラーの典型的なダメなパターンだと思うんですよね。

デスクワーク、オフィス内での仕事というのは、1時間で品物を何個生産ができるとか、そういったお仕事じゃないですからね。デスクワーク、オフィス内での仕事というのは、知的生産であり、知的成果物を生み出すための仕事をしています。

でも、まだまだ知的生産のことを知らない人は多いんじゃないかなと思う。言葉を知っていたとしても、どのような意味合いを持つのかを判っていないのかもしれない。

誰にも与えられた仕事があり、自分で開拓した仕事もあるだろうし、自発的に活動しようとするスタッフも居る。そういった頑張るスタッフのモチベーションを削いでしまう理由が、自分の仕事が思い通りにならなくなってしまうということだと思う。ましてや、それが上司や先輩から与えられた突発的な仕事で自分の仕事のスケジュールが狂ってしまうのであれば、上司や先輩は自分が手がけている仕事の内容を理解しているのだろうか?と不信感を抱いてしまうだろうと思う。

何のための朝礼か、何のためのミーティングなのか、本当に仕事を効率よく進めようという気持ちがあるのであれば、全体を見渡して、全ての仕事が滞りなく進められるようにしなければいけないと思う。

自分の仕事が上司や先輩から与えられた仕事をこなすために、遅延をしてしまい、後から何で自分の仕事が出来ていないんだ?なんて言われたら、そのスタッフは孤立してしまうだろう。そういった細かな配慮をしてあげないと仕事は進まないし、効率の良さなんて追求は出来ない。

誰もが会社に出勤をすれば仕事はあるはず。言葉の通り、出向いて勤めること。出向いて勤めることが出来ないと感じてしまうような体勢では会社として恥ずかしいことだと思う。

仕事を頼もうと思った、そのスタッフの手元にはどのような仕事があり、どれほどの時間を要するのかを確認しなければいけない。だが、なかなかそんなことが出来ているような企業は見た事が無いし、聞いたことが無い。仕事の量、必要となる時間を計算しながら、新たな仕事を依頼しなければ、

IT関連、クリエイターなどが禅に興味を持つ理由

IT関連、クリエイターの人たちが禅に興味を持つ理由としては、ITクリエイターの人たちのなかでも人気の高かったスティーブ・ジョブズ氏が禅宗だったからという理由がひとつある。ITクリエイターだけではなく経営者、ビジネスマンからも人気が高かった。

いやいや、スティーブ・ジョブズ氏が禅だとか仏教徒だということが広く知られる前から、禅などに傾倒していたという人もたくさん居ると思う。私もちびっ子の頃から色々とやらされていましたから。

でも、現代に禅を波及させたのはスティーブ・ジョブズ氏でしょうね。それよりも前に禅を世界に広めたのは鈴木大拙先生だけど。

ただ、スティーブ・ジョブズ氏が禅を広めたからなのか、禅、仏教、日本文化なども見直されている。というよりも注目を浴びている。インバウンド観光が人気だというのも底上げを担っているかもしれない。そして、海外で日本文化の人気が高まってきているんだと思う。昔なんてデザインとかするのに日本文化がとか間とか余白を考えるなんてことは無かったからね。明らかに現代のデザインは、日本文化が海外で注目されて、外国の人たちに取り入れられて実用的になったと思う。そして、拠り良い日本文化として海外から日本に入ってきているように感じる。

ときに日本文化が禅であり、禅が日本文化であると言われることもある。そしてシンプル、簡素、簡潔、余白、間などが活かされている。シンプルなデザイン、考え方もシンプル、そのシンプルさが日本文化であり、日本文化の良さ。スティーブ・ジョブズ氏もシンプルな考えと集中を推進していた。自室には、ほとんどモノが無いシンプルで簡素な部屋だったということもよく知られている。

禅 は 示 単 と書きます。

単に示す。 それは単純に示すこと? それはシンプルに示すこと? 示 という漢字は神様や仏様の心が示されているという意味が含まれている。

禅画というものがあるけど、禅宗の教えや自分の内観に見えたものを表現するために描くと言われている。絵画だから、描くことを自分の頭のなかでイメージしなければ描くことが出来ない。そこにクリエイティブなハートがあるんだと思う。それは何かを創造すること、そのための心と精神。それが禅であり日本文化なのかもしれないし、示すということなのかもしれない。

つまり禅というのは何かをクリエイティブするというよりは、自分の心をクリエイティブするということ。そして、思考を、精神を、世界を、全てを、シンプルにクリエイティブするということなんだと思う。そして、世界を良い方向へ導くために示そうとしているのかもしれない。

現代ではデジタル・デバイス、ソフトウェアでクリエイティブなことができるようになった。そのクリエイティブさで何を表現するのか。心を表現するのか、それとも別のことを目指すのか。

スティーブ・ジョブズ氏はスマートフォンというデバイスで明らかに世界を変えた。世界を変えたということは、今までの世界とは別の方向へ進む世界を創造したとも言える。たしかにスマートフォンの出現により、生活が変わったと思う。便利になったし、いつでも情報を入手できるし、いつでも友人知人と連絡を取り合うことができる。

スティーブ・ジョブズ氏は禅の教えの通り、現代に良い世界を示しただけだったのかもしれない。

IT関連、クリエイターなどが禅に興味を持つ理由というのは、スティーブ・ジョブズ氏のように新しいアイデアで何かを生み出すことができると考えているからなんだと思う。

新しい世界は、新しい世代の人たちによって作られるんだろうな。

就職活動で思い出した

昨今、就職活動はとても大変らしい。

就職難、就活は厳しいとか、内定が無いまま卒業を迎えてしまったとか、色々な話を聞くけど。

今まで一生懸命勉強をしてきて、中には資格を取得した人も居るだろうし、面接に向けてスーツを買ったり、靴を買ったり、ネクタイを買ったりと色々な準備をしているはずです。履歴書だって、何社も面接を受けるのであれば、何枚も書かなければいけないし写真貼付必須の企業が多いので、何枚も写真を撮影しなければいけないし・・・地味に大変だし労力を要する。

なんで一生懸命勉強をして学校もしっかりとした有名校を卒業したのに、就職が出来ないんだって思うのは当たり前だと思う。その気持ち、すごい判ります。両親にも早く就職先を見つけなさいと言われても、両親が育ってきた時代と今の時代は明らかに違うわけだし、高度経済成長まっしぐらな日本ではなくなっている。

雇用をつくることが難しい時代、働くことが難しい時代、学校を卒業してもどこで活躍すれば良いのか判らない時代。先が見えない時代に突入してきたとも言える。

 

 

私の若い頃

私が若い頃はバブルが終わりに差し掛かっていた時期だった。でも、まだ世の中はバブルの余韻を味わっている状態だった。1980年代、昭和という時代だった。とにかく街中はBMWが多かった記憶がある。BMWというドイツの高級車がまるでトヨタのカローラのような一般大衆向けの自動車のように扱われていた。送ってもらうだけの彼氏のことをアッシー、食事を奢ってもらうだけの彼氏をメッシーという言葉も流行した。

タクシーに乗るにも距離とか関係なく1万円札とか払っていたし。夜の街もとても賑やかだった。ゴルフ場もラウンドフィーが高かった記憶がある。16,000円くらいでも安いという時代だった。今の時代は16,000円だったら高い。ゴルフ場の会員権も高かったし、預託金制度で集客をしているゴルフ場が多かった記憶がある。だから、今になって預託金が返金できないという問題になるのだろう。

そんな時代に学校を卒業して、狂った社会に放り投げられた。

バブルだったからなのか、直ぐに採用された。その会社、電子制御の部品や電子製品を製造していて、私は設計・開発という形で入社をした。当時はAutoCadというのが主流で、CADの資格を持っていたことが良かったのかもしれない。

皆、同じリクルートスーツを着て、似たような靴を履いて、同じ様なカバンを持っていたのが印象的だった。異なるのは目つきと姿勢と覇気だけだった。学校を卒業したばかりの小僧が一生懸命に世の中のために働くなんて志を持つことが難しいと思った。遊びに行きたいという気持ちの方が絶対に強かった。自分もそうだった。初めて入社した会社で感じたことは世の中って人の個性をまずは摘み取ることから始まるのかと思ったりもしてしまった。

バブルで仕事が山ほどあるからなのか人をたくさん採用していた。たくさん採用していたけど、半年後には採用した人の半分は退職していった。仕事がハード過ぎたんだ。今の時代でいうなら完全ブラック。残業なんて毎日当たり前だったし、土曜日出勤もあったし、新卒の右も左も判らないような従業員でも思いっきり駆り出されていた。勿論、残業するときも土曜日出勤するときも申請書みたいな書類を提出して上司の確認を得ていた。社内に労働組合があるような企業だったので色々な面で会社側と組合側と歩み寄りながら働き方を調整してくれていたみたい。残業代はしっかりと払ってくれる企業だった。1ヶ月の給料が新卒に支給される額とは思えないほど高給だった。もしかしたら今より良いのでは?と思ってしまう。これが、バブルなのかと感じた。世の中ってこうなんだ。そういうことだったのかと思い切り勘違いをしてしまった自分が居た。

今の時代のようにインターネットなんて普及していなかったし、携帯電話はとても高価だった。友人と連絡を取り合うのに、自宅に電話をしていた時代だった。友人に会いたいな、連絡取りたいなと思ったら自宅に電話をする。外出して不在であれば、どうにもならない時代。まだ、公衆電話があったしテレフォンカードも普及していた。今の時代とは違って、どこかの誰かに何かを相談したりとか、どこかで情報得たりすることが難しかった時代だと思う。パソコンはあったけど、PC-8801 とか PC-9801 とかが主流だった。一般的にはキューハチとか呼ばれていたパソコンというかコンピューター。インターネットはあったけどアナログが主流で、夜中はテレホーダイというサービスがあって、夜11時になると回線が使い放題となるアナログ回線のサービスだった。あとはISDN回線というデジタル回線があった。こちらの方が少しだけ回線速度が速かった。といっても64Kbpsだった。

自分が取り組んでいる仕事が良いのか悪いのかも判らないまま、与えられた仕事はこなしていた。設計・開発という部署だったので、新しい商品を開発したり、新しい商品に過電流を与えて耐久テストなどを行ったり、商品を小さく、消費電力を少なくするということを追求していた。新しい商品の試作品を作って、耐久テストで壊すということを繰り返していたが、それが本当に役に立っていたのかどうかは判らない。テストした内容のデータを取得して一太郎などに数値を入力してデータ化をして支社へ送る。その送るのがインターネットの回線 ISDN 64Kbs。仕事を終える直前に送信セットをして翌朝出勤したら送信完了しているという具合だった。

仕事であったとしても自分が一生懸命に考えて、自分が努力して作り上げた商品を耐久テストという名目により、どれほどの圧力で破損するかとか、どれほどの電流で漏電するのかテストされながら壊されるのは嫌な気分しか残らなかった。そういった仕事に対する感情もコントロールをしなければいけないということを覚えた。そして、インターネットの存在はとても興味深かった。

上司や先輩に変な人が居なかったのが幸せだったかもしれない。仕事はハードだったけど、仕事の細かなやり方や進め方は教えてくれなかった。というか、見て覚えろという世界だった。仕事のハードさを乗り越えるためのヒントなどを教わった。それが、自分にとっては役に立ったと思う。現場で慣れろ。習うより慣れろ。とにかく手を動かして仕事をしろということを教わった。後々、インターネットの存在が自分自身を導いてくれることになる。

一番、嫌だなと思ったのが、いきなりの出張命令。明日から1週間九州へ行ってくれとか、福島県に行ってくれとか、とても大変だった。GoogleMapなんて無かった時代だから、とりあえず新幹線の切符を買うついでに行き先の駅までの乗り継ぎ方法などを駅員さんに聞いていたりしていた。

あっちこっちに行かされていたけど、あまり疲労感が無かった。きっと、若かったからだと思う。若いと回復力もあるし、仕事で夜遅くに帰宅しても友人たちと飲みに行ったり、遊びに行ったりしていた。

人は長い時間、同じ様なことをしているモチベーションが下がってくる。人間関係が悪くなくても、給料が良くても、モチベーションが下がってくる。同じ日々の繰り返しだから。今の時代であれば、モチベーションを維持するためのコンサルとか雇い入れて社員教育とかするのだろうけど、当時はそういったソフト面のサポートは一切なかったし、うつ病という言葉自体も無かったように思う。あったかのかもしれないけど、社内でそういった病気の人は居なかった。

いつしか、何かに取り付かれたように、この会社でずっと働いてどうなるのかな?とか、部長とか専務とかになれるのかな?とか20年後もこの会社に居るのかな?とか考えると何故か不安になってくる。休むことなく働いて、しっかりと給料を貰っていても、将来が見えなくなることがある。それは、きっと目の前の仕事しか見ていなかったからかもしれないし、将来や未来を語って見せてくれるような会社じゃなかったのかもしれない。

なんだ、やっぱりオレは目先の仕事だけをこなすための働き蟻だったのかと思い出すと、あとはもう色々と決断するのが早かった。ある程度の役職も貰って、働き出してから4年目のころだった。石の上にも三年の時期は過ぎていた。

決定的な出来事としては労災隠しだった。試作品のテストなどをしていると部品が爆発したり、部品が飛び散ったりすることがある。そして怪我をすることもある。仕事中に怪我をしても労災扱いされなかった。そういったことが度々、起きていた。

来る者拒まず、去るもの追わずな会社だった。というか、それが普通だった時代。寮生活だったので、急いで自分の荷物を実家に送って、退職をした。

 

 

私が会社を辞めた後

辞めてからが大変だった。バブルも終わりを迎える頃だったし、多くの企業が縮小を考えていた時代。色々な会社に面接に行ったけど不採用ばかりだった。というよりも求人募集をしている会社がとても少なかったと思う。企業側もしっかりと働いて稼ぐというような人よりもアルバイトとかパートとか短時間で少なく稼ぐというような人を求めている傾向があった。企業にとって人を雇うということは責任が発生するし、一番コストがかかることだからだ。

以前、務めていた会社も結局は250人程度居たけど、人員整理をして半分にしたと、その当時の先輩から聞いた。後は、契約社員とか派遣社員で補っていくとのことだった。自分が、その会社を退職するのはタイミングだったのかもしれないと思った。

求人募集を見つける > 履歴書を送付 > 面接 > 不採用 という苦痛と疲労を生むだけのサイクルを何度繰り返したことか。不採用ばかりだと本当に気持ちが滅入ってくる。履歴書を書くのって意外と労力が必要だし、その当時は手書きでの履歴書が当たり前だったから、必ず自分で書いていた。履歴書に貼付する写真も何枚撮影したことやら。印象を良くするためにネクタイの色を変えてみたり、スーツの色を変えてみたり、これもまたけっこうお金がかかることだったりする。今の時代はどうなのか判らないけど、そもそも履歴書って不採用となっても返却されることを想定していない書類だったから提出したら、提出しっぱなしだった。不採用となったときに、ご丁寧に返却してくれるような企業もあった。面接に来てくださいって軽々しく言うけど、こちらとしては交通機関を使って行くのであれば交通費で必要なのになと思ったこともある。

嫌味な面接官も居たし、良い人も居たけど、皆同じ事を言う。不景気になってきたからね。即戦力が必要なんだよね。

資格を持っているとかじゃなくて、この仕事できるかどうか? という感じだった。つまり即戦力になるような人材を求めていたのだと思うし、即戦力になれれば人材育成のためのコストを削減できるから。

つまり学歴とかじゃなくて実力主義に時代が移り変わる頃だった。実力主義というか能力主義というべきかもしれない。学歴が無くても、出来るヤツは居たし、賢い人も居たし、仕事が出来る人も居た。そういった、学歴はないけど仕事をこなすための能力はあるというような、その人の良さを見出そうとしていた時代だったように感じる。

今の時代も学歴不問とか言われているけど、どうも昔とは少しニュアンスが違うように思える。結局は学歴で篩にかけているように感じるし、学歴があれば入社をして現場で叩き上げれば何とかなるかなと思っているのかもしれない。

何社も面接を受けたが結局は採用通知を貰うことは出来なかったので、自分で仕事をすることになった。設計も出来るし、電子部品とかにも詳しいし、壊れたテレビとか当時はラジカセとかCDプレイヤーが出始めた頃でもあったし、地元の電気屋さんに持ち込まれる電化製品の修理を自宅で手伝っていた。ちょうど、その頃辺りからSOHOという言葉が根付きつつあったし、フリーターという言葉も一般的に浸透しつつある時期だった。インターネット普及しつつあったし、Windows95からWindows98へ移行する時代だった。インターネットの仕組みのことなどを必死で勉強していた。そして、自室で電化製品をいじっているのも何だか気が滅入ってくるので、何かしたいなという想いがあって、ニュージーランドへのワーキングホリデーのビザが取得できるというのを聞いた。国から補助金が少し出るらしいということで、応募して当選した。半年ほどニュージーランドへ行った。英語を勉強をしたいという気持ちがあったけど、ニュージーランドではスキーとスノーボードとゴルフばっかりやっていた。日本へ帰国した時には冬だったので、そのままスキー場へ住み込みのアルバイトに行った。

スキー場ではスノーボードのインストラクターというか先生といか、一応スノーボード検定1級、スキー検定2級を取得していたので、修学旅行でスキー場に来た生徒たちを引き連れてゲレンデ・ガイドみたいなことをやっていた。けっこう面白かった。だけど、毎日スノーボードで滑っているとやはり疲労が伴うわけで、ブーツと足が擦れる部分が薄利骨折を起こしてしまった。

あとは小学校の頃からギターを弾いていたので、楽譜も読めたので某大手の音楽スクールでギターの先生をアルバイトとして働いていた。会社に勤めるより意外と稼げるなと思った。確定申告もちゃんとしたし。

今から18年位前の話し。今と変わらないのは、結局は自分の能力、個人の力で稼ぐしかないってことだと実感した。電化製品の修理も自分の知識と経験、スキー場でのインストラクターも自分の技量、頼りない英語力も自分の能力。

芸は身を助ける という言葉があるけど、本当だなと思った。

 

 

結局のところ

結局のところ就職活動って、その企業と働く人の相性が合わなければ無理なんだと思う。企業には、その企業のやり方があり、姿勢があり、DNAがある。そういった暗黙値を理解して働けるのかどうかだけなんだと思う。嫌だなとか、ここの会社ヤバイなと思ったら、辞めた方が良いと思う。不信感を持って働くことは出来ないし、会社に行くのが辛くなるだけで、会社に行っても仕事にならないと思う。会社にとっても自分にとっても何もメリットが無いという状態は避けたほうが良い。今は自分が面接をする側だったり、求人をする側なので、色々なことが判ってくるから、こんなことが言えるのかもしれないけど。

就職活動をサポートするとか、支援するとか、学校も国も色々な策を練ってくれるのだけど、実際に就職活動をしている人たちの役に立っていないように思う。無駄な策ばかり。きっと、それは実際に就職活動をしながら悩んでいる人たちの気持ちや想いを理解していないからだと思う。どこで、どのように、何が問題なのか理解していないから、とりあえずの就職活動支援しかできないのだろうと思う。

自分自身が就職活動で辛い経験をしたことがあるので、今の時代の若い人たちが就活が厳しいとか聞くと、他人事ではないような気持ちになってくる。そう思っていることが他人事なのかもしれない。でも、そういった経験をしたことのある私としては、やはりとても気になる。気になるというか自分自身が辛い思いをいてきているので、その経験がフラッシュバックすることがある。それほど、就職活動で苦しい思いをしたり嫌な思いをすると、引きずるものなんだと思う。

今、就職活動している人たちには諦めずに頑張って欲しいと思う。

 

 

夢とか目標とか無くても

夢とか目標とか無くても生きていける。ただ、生きている間に誰かに何かを言われなくても夢とか目標が出来るようになってくる。
私もそんなに紆余曲折の人生ではないけど、今は夢もあるし目標もある。

誰かに何かを言われようとも、就職難であろうとも、自分のチカラで生きていく方法を見つければ良い。それが、難しいんだけどね。でも、今まで努力してきたことは、必ず報われる。

頑張れ何があっても。
前進あるのみ。

負けてはいけいない。
挫けてはいけない。

きっと素晴らしい能力があるはず。
素晴らしい才能があるはず

畳の縁を踏んではいけない理由

畳には結界の意味があるとか言われている。それは、きっと九字を切って結界をつくることを言っているのかな~と思います。結界の意味が曖昧だったりするけど。

畳にはサイズがあります。
京間とか色々と言われていますが、そういったサイズはおいておいて。

畳のサイズは 「6尺3寸 × 3尺1寸5分」であると昔から言われており、長方形となっています。 その畳のサイズに合わせて家を建てていたという歴史があります。

この畳のサイズにはとても大きな意味があります。

6尺3寸 × 3尺1寸5分 は・・・
6+3  と 3+1+5
6+3=9 3+1+5=9
不思議ですね。
どちらも答えは9になりますね。

数字の9の意味 をもっと深く追求をしていくと・・・9という数字は最高位の意味があり、神道でも9は最高の数字。

中国での9は、九天、九重天の意味があり、実は皇帝のこと。

仏教というか、密教では九字を切って結界を作ります。
陰陽道にも精通する九字護身法です。
結界を張って邪悪な魔(邪魔・邪念)から本尊を守るという意味があります。

九字を切って結界というのは、両手で形を作って、臨(りん)兵(ぴょう) 闘(とう)者(しゃ)皆(かい)陳(じん)烈(れつ)在(ざい)前(ぜん)とか、おまじないみたいな感じのです。

映画とかで見たことあるかもしれませんね。
九字は流派によって少し異なることがあるけど。

私も子供の頃に習ったことがありますが、もう忘れました。
臨!兵! 闘!者!皆!陳!烈!在!前! と 唱えて、えいやぁー!!! と 刀印で切れば、結界が作れます。すごいでしょ。

刀印とは、人差し指と中指を立てて刀みたいに見立てること。

仏壇の置いてある家の人は聞いたことあるかもしれないし、知っているかもしれませんが、仏壇の置いてある部屋の畳には、畳結界というのがあります。

併せて、仏壇そのものに結界が張られていますからね。仏壇の中には結界敷というものがありますから。仏壇を粗末にはしてはいけないですね。

家を建て替えたり、家を選ぶときには、仏壇を受け継がなければいけないので、畳の部屋があると良いかも・・・というのは、この辺りの思想が受け継がれていると思います。

昔の日本は、畳を使える人は位の高い人、身分の高い人だけでした。
位の高い人を神として扱うような風潮があったからなのか、その神(位の高い人)を守るという意味で、はじめから畳に結界を張っておこうということで、6尺3寸×3尺1寸5分のサイズにして、9という最高位の数字を畳の中に隠すかのように取り入れていたのかもしれませんね。

日本古来では位の高い人、身分の高い人は神とされていて、そういった神と呼ばれる人たちの周りには、特殊な能力を持った人たちが仕えていて、上述した様々な知識を伝えていたと言われています。それが、陰陽師という人たちです。
念力とか神通力とか使えたみたいです。

さらに数字の9を深く究明していくと 後天定位 というものがあり、ネットとかで検索とかすると魔方陣だとか言われていますが・・・うーん。
魔方陣でも良いです。

縦の数字を足すと15になります。
横の数字を足すと15になります。

これが基本で色をつけて五行(木火土金水)十干、十二支を配置すれば八卦ですね。東西南北を付けて数字の位置が変わっていくということ。九星ですね。占いとか詳しい人には判るかもしれませんが、真ん中が五黄土星。このあたりは小難しくなっていくし、宇宙だとか、占いだとか複雑なことになっていくので、また今度で。 占いの基になった学問というか哲学です。

風林火山で有名な武田信玄も五行を取り入れていましたからね。
オマエは水、オマエは火。
水と火、2人は仲が悪いがチカラを合わせて戦うことが出来る・・・というように人心掌握に長けていましたからね。

つまり、相手の特質、気質を知ることが出来ます。つまり、気。それが、判れば気心知れるし、気が知れないなんてこともないし、気が合うようになるから、喧嘩もしなくなる。 現代は、こういった学問が無いので、気を勉強しないので、気が知れない、気心知れない、喧嘩する、争いする・・・そーゆーことです。

レッドクリフという映画があったじゃないですか。諸葛亮(諸葛孔明)が数日で何万本の弓矢を用意するときに船を出陣させるシーンがあって、諸葛亮(諸葛孔明)が亀の甲羅を見て、亀が汗をかいている・・・と言うシーンがありました。後天定位は、亀の甲羅の模様を基に考え出されたといわれています。レッドクリフの映画は、それを知っていて亀を登場させたかどうかは判りませんけどね。

日本古来には様々な知恵があったんですよね。
日本人ってすっごい頭が良いんです。
その賢さは私達が受け継いでるんです。
すごいことですよ。
ただ、昔から現代へ受け継がれていないだけなんです。

悲しいかな日本の昔の伝統、慣わし、風習というのは廃れつつあります。戦争で負けてGHQが設置されてから、日本の過去のことを葬り去られたと、大婆様が言っていたけど、本当にそうなのかも。

海外の文化がたくさん日本に入ってきて、海外の文化を踏襲しているけど、私たちのDNAには日本人としての伝統、慣わし、風習が刷り込まれていて、除夜の鐘をついたり、初詣に行ったり、七五三で氏神様(産神)のところに行ったり、お盆は墓参り行ったりしていますからね。

合格祈願で神社などに行く人も多いし、お守りとか護符とかを買う人も居ますし、合格できるようにと祈るはずです。お守りとか護符を買うということは、ご利益があると思って買うはずです。

祈ることが、既に念力ですよね。
合格できるようにと念じているんですから。

だから、むかしの陰陽師が念力が使えたというのは、本当かも?

ということで、畳の縁を踏まないという話しから・・・
畳の結界、仏壇の結界、九字護身法、陰陽道五行思想、陰陽師、念力まで一気に書き綴ってしまって、すみません。上述した様々な要素を取り入れて、畳の縁は踏んではいけないということです。

でも、昔の人は誰でも知っていた学問なんですけどね。そいうった学問、知識を取り入れた生活が普通だったということです。現代に伝わっていないだけで。

そんな目に見えないチカラなんてあるわけないと思われるかもしれませんが、昔の人たちは研究をしていたのだと思いますし、そういった思想が日本には根付いていますし、目に見えないチカラが在るとか無いとかというよりも信じる気持ち、信じる心が大切なんだと思います。 お墓参りにいって、自分の家のお墓を粗末にしている人なんて見たことが無いです。どんな乱暴者でもそんなことをする人は見たことが無いです。それって、お墓を粗末にしてはいけない、ご先祖様が・・・という気持ちがあるからだと思います。もしかしたらバチが当たるかもしれないと思っている人も居るかもしれません。それこそ目に見えないチカラに対する畏怖の念があるのでは?

こんなこと学校の先生でも知らないだろうと思いますから、憶えておくだけでも良いと思いますよ。

だって、履歴書に生年月日を書くのって日本だけですよ。
その理由とかも知らない人多いし。

PS~
私は宗教家とか変な勧誘とか、怪しい人じゃないですから、あしからず

武士道とは死ぬことと見つけたり

武士道とは死ぬことと見つけたり

葉隠覚書には、武士道とは何たるかが書かれた本。

武士道とは死ぬことと見つけたり・・・武士道とは死ぬことと思われそうですが、実は違います。

武士道とは死ぬことと見つけたりの意味を勘違いして特攻させたということが書かれている本も読んだことがあります。武士道とは死ぬことと見つけたりの本当の意味は、日本から海外に伝わり、悲しいかな海外から逆輸入で日本に入ってきます。

武士道とは死ぬことと見つけたり の 意味というか考え方としては、自分の生き方を 生 からではなく 死 から考えるということを説いています。私は70才くらいまで生きられるかな~と生から考えるのではなく、死から考えるということ。

もし、今日 死ぬのであれば髪の毛を整えておこうとか綺麗な着物を着て、下着も新しいのにしておこうとか、昔の武士、侍はいつも小奇麗にしていた意味がそこにあります。そんなことは基本的なこと。

もし、明日 死ぬのであれば今日一日 自分が精一杯何ができるのか? こういった行いをしよう、美しいことをしよう、人のためになることをしよう、皆のためになることをしよう・・・というように、死を見つめて生きることを説いており、死があるからこそ限られた時間を精一杯生きる、そして人として美しく生きる 悔いのない生き方をする、その道を見つけろということを説いています。

戦国時代が終わり、戦争の無い世の中になると武士は役人のような仕事が増えます。本当の意味で命をかけることが少なくなってしまったので、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・その心構え、心組が書かれた本です。

現代のビジネスマンにも通用するようなことが書かれています。あくびの我慢の仕方とか、挨拶の仕方とか、相手との交渉の仕方、深酒をするなとか、そういったことも書かれています。300年も前から深酒注意・・・現代ではもっと注意しなければいけないのかもしれません。

300年前の知恵は侮れません。

スティーブ・ジョブズ氏も鏡に映る自分の顔をみて、今日何が出来るか、明日死んだとしても悔いの無い日を過ごせるか、素晴らしい仕事ができるかを自分に問いていた。これこそ自分の生き方を死から見つめていたと言える。武士道とは死ぬことと見つけたり・・・スティーブ・ジョブズ氏もその言葉の意味を知っていたのかもしれない。

こんなスティーブ・ジョブズ氏のエピソードなんて誰でも知っているから、スティーブ・ジョブズ氏の側近、会社のスタッフにはもっとそのような考え方が浸透しているだろうと想像がつく。それは、武士道を生んだ日本という国の日本の企業よりも武士道が浸透しているのかもしれない。

死を見つめて生きる 死から今生きていることを考えることなんて難しいし。でも、そんな生き方ができれば本当に美しい。美しいから皆が集まるだろうし、人にも好かれると思う。

どうにも腐りつつある日本現代の社会だからこそ、人としての本当の美しい生き方が求められている時代になってきたと思う。

腐った社会の中で美しく咲く華のように。華を咲かせるために呼吸して光合成をしている葉。

その葉の裏側で 隠れるように 誰にも知られずに謙虚に

美しさの裏側
華やかさの裏側

葉隠

これ、武士道なり

PS~
書籍の紹介

葉隠 上 (教育社新書 原本現代訳 113) 新書 1980/7
山本 常朝 (著), 松永 義弘 (翻訳)

新書: 314ページ
出版社: ニュートンプレス; 新装版 (1980/07)
ISBN-10: 4315401382
ISBN-13: 978-4315401387
発売日: 1980/07
商品パッケージの寸法: 17 x 10.6 x 1.8 cm

amazon
http://www.amazon.co.jp/%E8%91%89%E9%9A%A0-%E4%B8%8A-%E6%95%99%E8%82%B2%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8E%9F%E6%9C%AC%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%A8%B3-113/dp/4315401382

肥前国佐賀鍋島藩藩士の葉隠覚書の方です。武士道にまつわる書籍はたくさんあります。

今の日本人に必要なのは道徳心だと思う

道徳ということを最近はよく考えるようになってしまった。

道の徳 で 道徳。

人としての道を外さなければ徳を積めるということなのだろうか?

小学校の授業で道徳という授業があったという記憶があるけど、どのような授業を受けたのかはあまり憶えていない。お恥ずかしい話だけど。ちなみに文部科学省では小学校で使っている道徳の教科書がPDFファイルで閲覧できるのだけど、とても勉強になる。いまさらだけど考え直すことが多い。

道徳とは何だろうか。すぐに答えられる人って少ないんじゃないのかな。道徳って何か規範があるわけじゃない。善いこと、悪いことの判断。自発的に善い行いが出来ること。善い行いとは何かを理解していなければいけないし、善い行いというのは人それぞれ異なる面がある。言葉だけでは説明できないのが道徳。だけど、言葉だけで説明ができないような難しい心の道標を日本人は昔から大切にしてきたんだと思う。その心のことは良心と呼ぶのだと思う。

良い心と書いて良心。
良い行いをしようとする心。

良い行いとはどういうった行いをすることなのか説明をしてほしいと言われると難しいですね。例えば道を歩いていてゴミが落ちていたら拾うことは良い行いだろうし、電車に乗っていて高齢者に席を譲るというのも良い行いだろうし、誰かの手助けをしてあげることも良い行いだと思う。

言葉で言うと簡単。

それが、本当に実践できるのかどうか。

電車に乗っていて高齢者に席を譲ることは良い行いだと思うし、そういったことはすすんで行うべきことだと思う。でも、自分がそういった場面に居合わせたときに自分が良いと思っている行動を起こせるのだろうか。

高齢者に席を譲ろうとしたら、高齢者の人が、ワシはまだ若いから立ったままで大丈夫だと言ってくるかもしれない。

そして周りの人たちの目もあり、見られているという雰囲気から言い出せなかったりすることもある。

自分だけが高齢者に席を譲ろうと考えているのか、周りの人達は見知らぬ振りをしている。知らぬ振りをしている人が多いなかに置かれた、高齢者に席を譲ろうと思っている自分が間違っているのではないだろうかと感じてしまうこともある。そんな空気の中で高齢者に席を譲ろうと声を出すことに勇気が必要になってくる。

良い行いをしようとしているのに勇気が必要になるということが既におかしい。

文部科学省 道徳の教科書 PDFファイル にも記載されています。

私だって大人だし、良い行いがどういったことか判っている。

だけど、何故か良い行いをしようとするときに勇気が必要なのだろうか? 当たり前のことをしようとしているだけなのに、悪い事をしようとしているわけでもないのに。

道徳心というよりも勇気が必要なのだろうか。

現代の企業ではコンプライアンスという言葉を使うことが当たり前となってきた。コンプライアンスとは何だろうか。コンプライアンスという外来の言葉は、日本語にすると法令順守という言葉で片付けられてしまうことがある。

企業が法令を順守する。
当たり前のように感じる。

商活動をするにあたって法令順守をするということなんだと思う。企業が法令順守をするというよりも、その企業に属している人、従業員が法令順守しなければいけない。そのためにコンプライアンス研修をするという企業もあるらしい。というか、そういった企業が増えてきている。

法令順守すれば良いのかということ、そういうわけではないと思う。企業内でしてはいけないこと、励行しなければいけないことなどが決められる。社内のみで回覧する書類を写真に撮ってSNSに流すことは良いことか悪いことか。そんなことは判りきっていること。でも、そういった行為が悪いことだと思わない人も居るわけ。

法令というのは法律、規律、条例というような意味が含まれる。何をして良いのか、何をしたらいけないのか、自分が行っていることは良くないことなのかどうかを確認することも出来るし、知ることも出来る。コンプライアンスという枠があり、その枠の中で違反をしない限りは自由に活動が出来ると言い換えることも出来る。

コンプライアンスという枠で囲まれて、守れているかもしれないけど、自分が率先して活動しようとか、他人のためになる活動をしようとか、そういった心配りなどの規範意識を芽生えさせるということは難しいと思う。なぜならば、活動をしようとする場合には、その人の意思が活動をしようという方向へ向かなければ活動をしないから。そういった心が無ければ動くことがない。

だから、道徳心が大切なんだと思う。

では、オマエは道徳心があるのか?と問われると言葉が詰まってしまう自分が居る。道徳心とは良いことをしようとする心だろうと思うのだけど、漠然としか理解していない。自分の行いが道徳的なのかどうなのか自信が無い。だから、こういった文章を書いているんだけど。道徳心というものを追求していくと仏教とか禅などの教えにヒントを得ることも出来ると感じる。

はなしは飛んでしまうが、文部科学省のサイトにはこのように書かれている。生命を大切にする心、他人を思いやる心そして、善悪の判断。併せて規範意識などの道徳性を身に付けることが重要。というようなことが記載されている。しかも小学生向けだ。

小学生で習うことが出来ていないとか判らないということを言っているのではなく、小学生レベルから芽生えさせなければいけないほど大切なことなんだということ。

道徳心があってこそコンプライアンスは活きて来ると思う。

今の日本人に必要なのは道徳心なのかなと思うときがある。いや、日本人じゃなくて、日本という国そのものかも。いやいや、全世界が必要なんだろうな。

やりたくない仕事 と やりたいと思う仕事

サラリーマンとか会社に勤めている人にとっては、与えられた仕事が、やりたくない仕事と思うことは多いと思う。やりたくない仕事だとしても、やらなければいけないのは責任感があるからなのかもしれない。この仕事をこなすのは自分しか居ないからという気持ちを持っているのかもしれない。

何故、やりたくない仕事だと思ってしまうのだろうか。仕事の内容が難しいから、それとも仕事をこなすために煩雑な作業をしなければいけないから? それとも、仕事そのものを手がけることで問題が発生しそうだから? または、上司との相性が悪くて、命令されるのが嫌だとか、色々な理由が考えられます。

どちらにしろ、やりたくない仕事と感じるということは、やりたくないと思う理由があるはず。理由があるということは、やりたくないと思う理由が芽生える原因があるはず。

仕事をやりたくないと思う理由を見つける

やりたくないという原因を追究していくと色々な理由が見つかることもあります。

  • お客様と折衝するのが嫌だ
  • 見積もり提示など金額に直接携わるようなのは嫌だ
  • お客様からお金を頂戴することが悪い事のように思う
  • 上司と相性が合わない
  • 非効率的なことをやらされている
  • 無駄に残業をさせられている

・・・などなど、考えれば色々な理由が見つかります。

自分が手がけている仕事が向いてないと思うから、やりたくないと思うのであれば、上司などに相談をして別の仕事をさせてもらうということができるはずです。ただ、相談できるような上司、先輩が居ない場合は、いきなり社長に直接お話をしなければならないという会社もあったりします。

やりたくない仕事というのはあるけど、やりたいと思う仕事はあるのだろうか?

こういった仕事ならやってみたいと思ったことはあるのだろうか?

給与が高そうで、楽そうな仕事ならやってみたいと思ってしまうかもしれない。給与が良くて楽な仕事なんて世の中にあるのだろうか? もしかしたらあるかもしれない。もしかしたら、無いからこそ自分で仕組みを作っているという人も居るかもしれない。

だけど、仕事をしてお金を貰うわけだから、その仕事に関してはプロフェッショナルな面を持っていなければ仕事をこなすことは難しいと思う。自分が手がけている仕事に関して誰よりも詳しくて、誰よりも長けていて、誰よりも知識と経験が必要になると思う。知識も経験も技術も無いのに仕事は出来ない。仕事というよりも稼ぐことは出来ないという言葉の方が似合うかもしれない。

昨今、ネットオークションやネットショップが当たり前のようになった時代では、セドリという副収入を得る方法が人気となっている。セドリの仕組みは簡単で、本などを中古で安く仕入れて、自分の利益分を含ませながらも定価よりも安く売るという方法。これは昔からあるビジネス。中間卸業者的な感じ。つまり、定価800円の本を150円で購入して、定価を下回る500円で売るというようなビジネス。

本でも良いし、CD、DVD、ギターなどなど様々な品物に適用できると思う。

CDなどであれば絶版となっているような音源のCDを高価で販売するという考えもある。ただ、音楽などは文化であり、その時代が相場を決めるというところがあるので、珍しいからといって高額で必ず売れるとは言いきれない。

この、セドリという仕組みも楽して出来るビジネスではない。セドリの仕組みを知っていなければいけないし、売り掛け、自分が得られる収益も計算しなければいけないし、今の時代ではどのような本が売れるのかなどのトレンドも知っておかなければいけない。売れなければ、自分が仕入れて購入した本が在庫と残ってしまい、赤字となるだけ。

セドリが良いとか悪いとかではなくて、ちょっとしたアイデアでお金を生むことが出来るし、努力してお金を生み出そうとして行動をすることは、とても良いことだと思う。そして、自分のペースで出来るので何かに拘束されることがないから自由感はあるかもしれない。

拘束されない自由度の高さを考えると、給与はそれほど高給じゃなくても良いから毎日、決められた時間で仕事が終えられるような仕事をしたいと思う人も居るかもしれない。それは、会社に拘束される時間を出来る限り少なくしたいという考えがあるからだと思う。会社に拘束されたくないという考えがありながら、会社勤めをしているのも理不尽な感じがするけど。平たく言えば、早く家に帰りたいということです。早く帰宅して、自分のやりたことをやりたい、自分を待っている家族との時間、恋人との時間を多く取りたいという考えもよく判ります。

会社に拘束されたくないのであれば、起業するしかない。または、個人事業主として仕事をするしかないと思う。ただ、起業する勇気も無いし、知恵も無いし、自分に特別な能力があるわけじゃないけど、会社に拘束されたくないし早く帰りたい、そして仕事がしたくないという人がいちばん厄介だな。

会社に拘束されたくない、会社勤めをしたくないから起業をする、個人事業主として働くという考えの方がナチュラルだし、自分の能力を存分に活かすことが出来る。そして、自由度の高い仕事が出来ると思う。

ということは、特別な能力が無くて、そんなに仕事が出来るわけじゃないけど、楽な仕事がしたいとか会社に拘束されたくないと言っているような人というのは、純粋な我が侭なだけなのか、身の程知らずなのかもしれない。嫌なら辞めてしまうという方法もある。ただ、こういった我が侭ちゃん系な人は嫌でも辞めることがないだろうと思う。他に行くあてが無いから。

人によって、やりたくない仕事と、やりたいと思う仕事は異なると思う。そんなことは当たり前だけどね。